絵画について

 

 過剰な情報、新自由主義の市場経済、イラク・アフガン戦争、自爆テロ、文化の商業主義化、中国経済の台頭、リーマンショック、金融危機、寿司の世界的な流行、核拡散、南北格差、資源・エネルギー問題、環境問題、ネット文化、遺伝子操作、核競争、フェイスブック、IPad、東北地震津波とフクシマ、原発ルネッサンス終焉、アラブの春、カダフィ失脚、イスラム原理主義、世界人口70億人、パレスチナのユネスコ加盟、タイの水害、ギリシャ債務問題、ユーロ危機、アサドの独裁と抵抗運動などなど、無数の出来事と情報が、われわれの日常を覆いつくす。

 

 「絵画は事物の本質を描き表す」というような言説は、絵画の買いかぶりなのではないか。絵を描くということは、日常の事物の一瞬の表象を切り取り、それを虚構としての表現に置き換えることでもある。しかも、描かれた絵画の虚構性と事物の本質性とはそのままつながらい。

 切り取るという恣意性と描くという恣意性によって、絵画は現実世界とは異なる次元の虚構性を得る。したがって、そこから生まれる絵画の物語性は、けっして現実の物語ではない。というよりも、美術における「物語性」とは、いかにも物語っているようで、じつは何も具体的に物語っていない「物語性」ということなのだ。

 描かれた事物は、四角い枠に切り取られた世界の表象の断片のみであり、それらを並列的に並べるという方法には、特別なシステムや基準はない。むしろ、互いの文脈を欠いた無秩序な並列である。世界とは、無数の事象が同時並行的に存在し、偶然も伴って変化しつづける多様な姿である。

「人間の精神は、本来、事物のなかにある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違に充ちみちているのに、精神はいたるところに調和と一致、相似を見る。そこから、あらゆる天体の運動が完全な円を描くという、あのつくりごとが生まれてくるのだ」(F. Bacon)

 

 F. Bacon の言う「自然」を「世界」という言葉に置き換えてみることができる。とすれば、私が断片的に描き並べる絵画は、連続した世界の閉じたた物語(内容)を表すものではない。むしろ、それとは逆である。われわれの頭が求める観念的な調和や秩序性から、われわれの眼を解き放すことである。

 

 

 

 地図について

 

  国境あるいは国土の形は、自然の形状と人工的境界の両方で成り立っているが、基本的には、国土の形状は政治性から生まれた人為的な輪郭である。われわれ人間はそういう国土の獲得のために戦争を繰り返し、そのたびにまた、国土の形を変えてきた。結局、国境とは多くの場合、世界の政治力学から生まれた「争いの輪郭」である。

 しかも、その国土の全体像は人間の眼では直接見ることができず、人工衛星から地上を見た場合でも、国境線などは知覚できない。つまりそれは、われわれ人間の頭のなかでのみ描かれた政治的な観念上の姿である。ところが、われわれの認識のなかでは、そういう観念の形態が一人歩きして、あたかも絶対的な実在の形であるかのような錯覚を及ぼしている。

 認識の錯覚はひっくり返して、相対化してみる必要があるのではないか。

 

 

 

 

 野外作品 断章

 

 

 水で薄めたボンドを土や砂の上に霧吹きでかける。乾くと、数ミリの厚さで表面だけが固まる。すると、土や砂の上にも筆と絵の具で描くことができる。それは極めて単純な仕掛けと構造である。そして、そこになにかが描かれることによって、なにげない土塊や砂の窪みも、さまざまな表情を見せてくる。一握りの土も砂も、それらすべてが「存在することの姿」を備えている。

 私は、事物のそのような姿をあらわにするために、より単純で稚拙な描法を選んでいる。私にとって美術とは、「日常世界の隙間の姿」に人の視線をつなげる方法であり、その試みでもある。

 

 一九八〇年以来、現在に至るまで夏の間、夜はアトリエで制作をつづけ、午後はどこかの空き地の片隅で、なにげない地表の些細な凹凸に向かって筆を動かしてきた。私の住む北ドイツでは冬は長くて寒い。短い夏の光のなかで、私はバケツに入った素朴な道具をもって、あちらこちらの空き地や郊外の雑木林などへと車で走りまわった。

 すでに二十年も前のそんなある日、広い空き地の奥でうずくまって筆を動かしていると、背中の後ろで奇妙な気配を感じた。筆を手にしたまま振り向いた私は思わず仰天した。いつのまにか、数メートル後ろに六人の警官と二匹の警察犬がずらりと一列に並んで、じっと私の動作を見ていたのだ。汚い仕事着姿の外国人の男が、訳のわからないことをしているというので、調べに来たという。たしかに私の行動は、一般の人からみれば不審な姿に映るのだろう。身分証明書などを見せて尋問を終えたあと、私の方から警官に、ここへ来た理由を改めて尋ねてみた。「変な男が空き地にうずくまって死体でも埋めているのかもしれな」という通報があったというのだ。ドイツ人の警官たちは、私の行動の無害性を確認して帰っていった。

 また、ある冬の午後、白く雪の積もった数メートルの小高い盛り土の上に、青い粉絵の具を使って抽象的な線描をほどこしていた。雪に覆われた広い空き地にはいつものように誰もいなかったのだが、しばらくして上空で、ヘリコプターが低空飛行をしながら旋回して飛び去った。空から落とされる威圧的な騒音が去って十五分位後だろうか、二代のパトロールカーが音もなく空き地の脇に止まると、五人の警察官が厳しい顔つきで私に近づいてきた。あのうるさい音は警察のヘリコプターで、そこから警察本部に連絡があったというのだ。いつもの尋問の

あとの警官たちの説明では、白い雪の上に描いた青い線の模様が、テロリストの秘密の暗号ではないか、と上空のヘリコプターが受け止めて通報したらしい。

 自分では想像すらできない事情に開いた口もふさがらなかったが、このような非生産的な行動というものが、社会のなかではむしろ危険な姿に映るのだということを、つくづく思い知らされた。そして、人に疑わしさを与える私の仕事の意義までも尋問の対象となり、五人の警官たちに美術の解説までさせられるはめになった。

 行く先々で私は警察の尋問を受け、それは今までに二十回を超えている。きっとドイツの警察のブラックリストに載ってるんだろう、などとドイツ人の仲間に冷やかされたりした。

 

 警察のことはともかくとして、やはり自分のそういう行為には、ある種のむなしさがつきまとう。みずから好んで探した場所だとしても、空き地はやはり空き地であり、そこは社会の生産システムから見捨てられた「拗ねた場所」でもある。そういうところを一人でうろうろ徘徊し、文字通り非生産的な行為をつづける自分の姿を自分で見るとき、ある種の安堵と同時に、一種のむなしさとが互いに溶けあうこともなく胸の底にひろがってくる。それはたぶん、社会から見捨てられた場所での見捨てられた行為に対する疎外への不安であり、同時に奇妙な充足でもあるのだが、それとともに、自分の行為がやはり単なる自己満足に過ぎないのではないかという、出口の見えない自問から滲みでた感情でもあるだろう。

 

 むろん私は自分のために制作し、自分の納得において作業をする。けれども、美術という得体のしれない世界に深入りすればするほど、何にも代えがたい充足感とともに、それを孤独のなかで続けることの捉えがたい無力感にも引き裂かれる。

 『私は音楽家として、自分のために作曲するという態度を崩すことはないが、それが音楽として生きた響きとなるには、私の力だけで、それを行うことはできない・・・・・・・・今日の社会では音楽は無力であり、たぶん何ものも変えはしないであろう・・・・・音楽を通じて、既往の状態から脱した、他者との生き生きした新しい関係を得ることは、困難なことだろうか・・・・・私は、音楽が社会変革を助ける力になるであろうなどというようなことについて考えているわけではない。音楽の無力を知った上で、私は、なお、それを捨てることはできない』(武満徹のエッセーから)

 武満の記す無力感より私のそれの方が、より個人的で狭い意味であるのは自明なのだが、やはり、美術を通して『既往の状態から脱した、他者との生き生きした新しい関係を得ることは困難なこと』である。

 

 2000年の夏のある野外展で、私は下北半島の最北端にある龍飛岬へ行って作品をつくってきたことがある。半島の先の傾斜地に張りつくように並ぶ民家に囲まれた狭い路地の空間に、単純な仕掛けの小さな作品を設置した。

 作業が終わり、できあがった作品を見ながら一服していると、近所に住んでいるという腰の曲がった老婆が通りかかって足を止め、私と一緒にしばらく眺めたあと、声をかけてきた。独特の方言でよく聞き取れなかったのだが、老婆は最後に、「これが美術というのかね、んなら、ワシだってつくれるよ」というようなことを言って笑い、それでもなお、立ち止まりながら見つめて去って行った。

 この老婆の言葉と視線は、私の作品に対する最上の讃辞と批評でもあった。むろん、このようなことで『既往の状態から脱した、他者との新しい関係』などが、たやすく生まれ得るはずもないけれども、少なくとも、そういう関係性へのかすかな萌芽として、私は率直に受けとめた。

 

 いままで私は、私の眼や耳や躯を通して無数の形や色や音や言葉に接し、そこから多くのものを学んできたのだが、考えてみれば奇妙なことに、20、30歳代頃の自分に決定的な影響を与えた作家は、美術家ではなかった。なぜか、美術に隣接する世界の人々の残したものを美術のそれに置き換え、そこから自分の仕事を問い直すという在り方が多かった。なかでも、武満徹、 V・シクロフスキー、ロラン・バルトの三人は、その音と言葉を通して私の眼を変え、仕事の在り方を変えた。

 彼らによって、ようやく私は、見ることと、聴くことと、読むことの肌触りにじかに触れることができるようになった。そしてたぶん、表現行為とは、そういうところから始まり、同時にそこを問いつづける作業でもあるだろう。

 長い間、絵画はつねに美術の中心的な役割を担ってきた。けれど20世紀も後半にいたると、絵画や彫刻のほかに美術そのものの領域が急激にひろがってゆく。写真やヴィデオやコンピュータの表現を採り込み、あらゆる素材を駆使したオブジェやインスタレーションなどが混在する現代美術の多様な地平の上では、絵画もひとつの表現媒体でしかなくなった。しかも、そのあまりの常套的な方法としての絵画=描くという行為に、いまなお、どのような意味と可能性があるというのか。

 いいかえれば現代は、絵画自身がその存在と位置を問われている時代なのだ。とすれば、描くという行為を、そのもっとも初源的な姿に引き戻して問い直すことも、ひとつの方法だろう。

 

 落書きのように、あるいは単純な記号のように、線や点や人のかたちや文字などを、私は木の葉や土や砂の上に描いてきた。水で薄めたボンドの霧吹きと絵の具とカメラをもって、私は工事現場や空き地の片隅をうろつきまわった。

 人の視線から見捨てられた日常風景の片隅にうずくまって細々と描きつづける自分の行為に、ときに私は自嘲しながらも、この非生産的な活動に対する虚無感と愉悦のあいだで揺れつづけている。それは、美術という虚構と日常との曖昧な境界の上での宙づりであり、そこからこぼれる自分自身への不安と同時に笑いでもある。

 背中を丸めて土や砂の上に描いてゆく筆跡は、風雨や時間にさらされても、その色や形を消されることはない。けれども多くの場合、そこを通る人によって踏みつぶされ蹴散らされてゆく。したがって、私の仕事の破壊者は、自然ではなく人間である。

 ただ、このはかない仕事のむなしさの向こうに、なぜか奇妙な安堵とともに心の軽さも覚える。それはたぶん物質的な所有の不可能な、ただ見ることだけの記憶につらなる、この作品の曖昧さのためなのかもしれない。

 

 私は、身のまわりの日常環境のなかに、描くということのもっとも単純な行為をほどこし、それによって、「美術と日常」の「接点と境界」が初源的な姿であらわれ出ることを試みてきた。

 日常のなにげない細部に単純な筆跡をほどこすことによって、そのありふれた事物や風景の一隅が、奇妙な生気を帯びることがある。それは別の言葉でいえば、「異化」された風景・事物である。

 V. シクロフスキーは、その著書「散文の理論」のなかでじつに的確に記している。異化とは「知ることとしてではなしに、見ることとして事物に感覚を与えること・・・日常の見慣れた事物を奇異なものとして表現する非日常化の方法」である、と。

 野外作品において、私は風景=事物を描くのではなく、風景=事物それ自体に直接描くことによって「異化」を試みてきた。

 

 作品とは「見ることの仕掛け」の形式であり、そしてまた「見ることの発掘」でもある。

 そして、見ることにより、見ることの飢えは、研ぎ澄まされなければならない。